キリストが中心

キリストが中心

私たち人間が、自分の力だけで一致することは可能でしょうか? 

キリストの弟子たちの中に、マタイとシモンという弟子がいました。マタイがローマ軍の手先として同胞から税金や貢ぎを取り立てている一方で、シモンはローマ軍に敵対する民族極右政党「熱心党」に属していました。キリストがいなければ、彼らは、いまにも一触即発といえる状態でした。

しかし、この両者がともにキリストの12弟子として選ばれたのです。彼らの関係は、キリストのおかげでどうにか和を保つことができました。

聖書は、このようにキリストを物事の中心としたときに、初めて人間同士の一致が可能になると言っています。

人間は一致できない

人間の歴史を見ると、古今東西、絶え間なく戦争や紛争が起こっています。

政治の世界では、何度となく分裂分派が繰り返され、民間企業でも、上司・同僚・部下、または元請け、下請け、孫請けの間で一致できないことがあるのではないでしょうか。 

さらに身近な話しで言えば、PTAや自治会役員の間で心から一致することも難しく、仲良しグループの中や家庭の中でも不和があり、離婚する夫婦が多くいます。

自分と他者の利害が一致しない時に、私たちは別れ争うのです。

あり方の違いに調和を見出せず、自分と他者の欲求がぶつかるからです。

それは、キリスト教会の歴史を見ても例外でなく、古今東西で分裂分派が起こっています。クリスチャンとしては恥ずかしい限りです。

「それじゃあ、だめじゃん!」という声が聞こえてきそうですが、分裂を起こした者たちは、キリストに従わなかった者たちです。もしキリストに従っていたのであれば、一致できたはずです。

しかし、人間がキリストを中心とするときに、一致の道筋が見えてきます。

なぜなら、キリストは「互いに愛し合いなさい」「互いに赦し合いなさい」「互いに相手の真の成長のために仕え合いなさい」と言われたからです。

教会はキリストの身体

小さな地域教会の中でさえ、分裂が起こります。得てしてそれは、教会堂を建てるときによく見受けられます。自分たちが懇意にしている建築や設計事務所を使いたい、外装や内装はこのようにしたい、という互いの利害や思いがぶつかるからです。

ところで聖書は、教会とは、キリストのからだ(身体)だと言っています。【キリストのからだ】とは、キリストを信じる者(=クリスチャン)自体を指すのです。

【からだ】がキリストを信じる人たちであれば、その【かしら(頭)】は、キリストご自身です。【かしら】、つまり頭脳であるキリストに、キリストの身体なら従うはずです。

かしらであるキリストは「互いに愛し合いなさい」と言われました。ですから、もし、キリストを信じるすべての人たちが、このキリストのことばに従ったのであれば、分裂や分派は起こらなかったはずです。逆に、分裂分派が起こったということは、自称「キリスト教徒」のうちに、キリストに従わなかった人たちがいたということになります。

教会(の群れ)は、私たちがやりたいことをやるための場ではなく、キリストがおやりになりたいことをやるところです。キリストをかしらとして認め、自分がキリストのからだの部分であることを認めキリストを中心に集う時、私たちは一致し、そこから更なる一致が育まれるのです。

パウロは、「キリストの知識の一致」「信仰の一致」「聖霊の一致」と、言っています。キリストについて知るからこそ、キリストの願いを知ることになります。キリストを信じるからこそ、私たちは神を呼び求めるのです。そして神に助けを求めるからこそ、聖霊が私たちの肉の欲求を殺し、神が願っておられることを実現する力を与えてくださるのです。