主体的に取捨選択できるようになるために

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主体的に取捨選択できるようになるために

2019年7月29日

ジョシュア・ハリスさんが、離婚を発表し、
キリストから背を向ける表現を否定しないと述べたことについて
《主体的に取捨選択できるようになるために》

多くのクリスチャンの方々がそうであるように、私も多くのクリスチャンの著者が書いた本を読む機会が与えられました。その著者の中には、残念ながら本を出版した後に、罪を犯すことになってしまった方々もいました。


■ そのような本でも、読んでよかったと思うケースもあるのです。

主イエスは「ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。(マタイ23章3節)と言われました。

主イエスは、パリサイ人のことを「ゲヘナ(地獄)の子ら」と呼ばれました。しかし「彼らの言うことをみな否定するのではなく、神が言われることと矛盾しないのであれば、それは受け入れなさい」と、主イエスは言われます。一方で、「彼らの行ない(生活においての言動)を真似てはいけないよ」と、主イエスは言われます。

私も以前は、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という態度を「失格者たち」に対して取った時期がありました。しかし今では、自分がキリストのようになるために必要なものを、取捨選択できる主体性が成長できればいいと考えています。


■ どうしたら、そのような主体性が養われ育まれるのか? 

パウロは次のように言っています。

「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧者また教者として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」(エペソ4章11~15節)

ずいぶんと長い答えになってしまいましたが、まさにここに、主体性を養う秘訣が書いてあるのではないでしょうか。この聖書箇所の後半で、パウロは大人になって欲しいという趣旨の発言をしています。なぜなら子どもは、「人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりする」からだ、と書いています。子どもは、主体的に取捨選択できずに、教えの風に吹き回されたり、教えの波にもてあそばれたりしてしまうと、問題の根っこの部分に触れています。


■ 一方で、大人は、何が本物で、何がガセネタであるかを主体的に取捨選択できる状態、もしくは成長段階を指すのだと思います。

パウロは、キリストのようになることを目指して成長することを助け合うときにのみ、このような取捨選択できる(識別の)成長が望めると言っています。この文脈から離れてしまうと、どれだけ知的ジャイアントになっても大人になりきれないのではないでしょうか。キリストが何を大切にされているかという核心、もしくは基準から離れてしまうと、せっかくの賢そうな発言も、教えの風や波から自分と他者を守ることができない残念な結果になってしまうのではないでしょうか。

エペソ4章11~15節を読むと、教会を建て上げるときに、つまりお互いがキリストのようになることを目指して成長を助け合うときに、キリストの知識をさらに理解することができると書いてあります。私たち人間はみな自分を優先させる者です。自分の成長については時間とエネルギーを使いますが、他者の成長については自分の成長ほどに時間とエネルギーを使わない者です。

しかし、パウロは「キリストは使徒、預言者、伝道者、牧者、教仕を立てるのは、彼らがクリスチャン同士の成長のために時間とエネルギーを使うようにファシリテートしなさい。それはキリストのからだ(教会)を建て上げる(成長を助け合う)ためです。その成長を助け合うプロセスに参加する中で、キリストが何を大切にされているかを知り理解することができます。そしてキリストが何を大切にしているかを知ることができれば、そのことによって、お互いの霊的成長にとって何が良いもので悪いものであるかを識別できるようになるので、ガセネタ(教えの風や波)に振り回されなくなる」(私訳)と言っています。キリストが何を大切にされているか、参加したときに、主イエスが聖霊によって教えてくださり「主体的に良いものと悪いものを取捨選択できる状態」が養われて育まれて行くのではないでしょうか。

キリストが何を大切にされているかを知らなければ、教えの風と波に吹き回され、もてあそばれてしまいます。つまり、本物とガセネタの区別がつけられないということです。特に、ひと世代前までの日本人は活字になった洋物に弱いというか鵜呑みにする傾向性があるように思います。そして次世代も前の世代の影響を多少は受けるように思えます。日本のプロテスタントのクリスチャンは、洋物(特にアメリカ)のキリスト教なら、吟味せず、検証もせずに、なんでもありがたくいただく傾向性があるように思えます。


■ どうしたら主体的に取捨選択できるようになるかの大きなヒント

かくいう私もその中の一人でした。しかし、地域教会でキリストが願われていることに取り組む機会が与えられるに従って、だんだんと本物とガセネタを見分けることができるようになりました。特に、エペソ4章11〜16節には、どうしたら主体的に取捨選択できるようになるかの大きなヒントがあります。

しかし、お互いの成長を助ける知識を吸収して消化するのには、神の愛がなければ消化することは難しいでしょう。そうでなければ反発を覚えて、せっかくの真理も弾いてしまうからです。私も、尊敬していたクリスチャンが罪を犯したりすると、その後に反発して「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というモードになりやすい者でした。

しかし、それぞれが参加している地域教会の中で、相手の成長に仕える経験を積むと、相手の成長に仕える上で何が良いのか、また悪いのかを見分ける識別力が成長して、主体的に取捨選択できる力が育まれるのだと聖書は言っています。

「ミルクばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。赤ちゃんなのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」(ヘブル5章13〜14節)

ミルクは、自分とキリストの愛し合う関係を育み養うものです。一方で、堅い食物は、他の兄弟姉妹の成長に仕える上で必要になるキリストの知識です。コリントのクリスチャンは争っていて、相手に仕えるどころか、キリストと愛し合うという基本的な関係を放棄するような状態でした。そのコリントのクリスチャンに必要なのは堅い食物ではなくて、ミルクだったのです。もちろん彼らの心の中には、お互いの成長にとって何が良いもので、何が悪いものかを判断するような態度や識別力はありませんでした。ですから、主体的に良いものと悪いもの取捨選択するどころの話ではなく、互いに愛し合うという基本的なスタート地点に着くために、もう一度ミルクを飲むことから始めなさいとパウロに言われる始末でした。

以上からもわかるように、相手の霊的成長に仕えるという動機を見失うと、何が本物で、何がガセネタであるかを見分けることはできないことになります。なぜなら、相手の霊的成長にとって何が良いか悪いかを、キリストが大切にされていることを基準にして識別するのですから、日々、それに取り組んでいる人でなければ、経験を積むこともできず、経験を積むことができなければ、識別力は養われないからです。

ジョシュア・ハリスさんが、アメリカの性的マイノリティを擁護する文化的圧力に同調してしまったのは悲しいことです。しかも、その上で、キリストの愛から離れてしまったことはさらに悲しいことです。しかし、彼が書き残した本の内容のすべてが否定されるわけではないと思います。キリストが言われたように、ゲヘナの子パリサイ人が言うことでも正しいことは聞き入れて、彼らの言動には倣ってはならないとのキリストの命令に従えばいいのだと思います。

■ キリストは、ご自分が大切に思っておられることを明らかにしてくださるので、私たちは何が良いことで悪いことかを識別できるようになるのです。

そして、識別力を養うことについて、聖書から長々とわかち合わせていただいた内容が、これを読まれる方々にとって祝福となることを願っています。たとえ、どんなに素晴らしく見える人間が失敗して倒れても、つまずかないように! 私たちのイエス・キリストは決して倒れることはありません。すでに罪に勝利されて、逆に私たちが罪に打ち勝つことができるようにしてくださいました。

キリストは、ご自分が大切にされていることを、人間を通して、聖霊によって明らかにすることによって、私たちを赤ちゃんから大人へと成長させてくださいます。主イエスは、私たちが成長する過程で、識別力をも育み養くださいます。そのようにして、互いの霊的成長にとって何が本物なのか、またガセネタなのかをわかるようにしてくださいます。その成長段階で、聖書の堅い食物も、さらに私たちの識別力を高めるように助けてくださいます。何から何まで、父なる神のサイドで、私たちの霊的成長に必要なものは用意してくださっています。

お互いの霊的成長のために仕え合って、成長して行く過程で、主体的に何が良いもので悪いものであるかを取捨選択できるように、これを読んでくださった方々のために祈ります。そしてすべてのクリスチャンが、霊的に成長するように祈ります。

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