どんな集会があるの?

どんな集会があるの?

その前に、そもそもなぜ集まるの?

神を礼拝するために集う

聖書の中には、クリスチャンが神を礼拝している記述が出てきます。「彼らが主を礼拝し……」(使徒13:2)。

【神を礼拝する】とは、神をほめたたえ、神を敬い、神を尊重し、喜んで神に聞き従おうとする内なる態度です。

集会の目的

聖書は信徒たちが集会を持つことについて、「集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い……ますますそうしようではありませんか!」(ヘブル10:23-25)と言っています。

その理由は、以下のとおりです。 

  • 永遠のいのちの希望を告白するため
  • 善い行ないをすることを、互いに勧め合い、促し合うため
  • 互いに愛し合うことを、勧め合い、促し合うため

教会はエルサレムで始まった

人類最初のキリスト教会は、エルサレムで始まりました。神が、弟子たちに証言する力を与えたので、彼らは神の愛であるキリストの良き知らせについて力強く証言しました。その良き知らせ、神の愛を聞いた人々は、イエス・キリストを、救い主として、また、つき従っていくべき方として受け入れ、信じたのです。このようなキリストを信じた人々によって教会が始まりました。そしてそのエルサレムの教会では、以下の4つのことを行なっていました。(使徒2:42)

  • 使徒の教え(キリストの命令)を堅く守る
  • 交わりをする
  • パンを裂いてキリストを覚える(聖餐式)
  • 共に祈る

教会を建て上げるために集まる

聖書は「キリストのからだとは、教会のことです」(コロサイ1:24)と言っています。つまり、逆の言い方をすれば、教会とはキリストのからだなのです。そして、キリストを信じる者は「キリストのからだの部分」(エペソ5:30)なのです。

そして、このからだの頭(かしら)はキリストです。聖書は、「御子(イエス)はそのからだである教会のかしらです」(コロサイ1:18)と言っています。

頭(かしら)であるキリストは、私とあなたを愛して、私たちの罪のために死なれました。私たちを愛しているこのかしらは、私たちに何かを強制したり、支配するようなことはなさいません。

悪者は、恐怖や力で他者を支配しますが、キリストは罪を赦す愛によって、私とあなたを引きつけます。つまり、私たちがキリストの愛を知れば知るほど、この方に応答したいという思いが強くなります。その思いを動機として、自発的にキリストに従うようになるのです。 

キリストが命じられることは、要約するなら「互いに愛し合いなさい」という一言に尽きます。そのキリストに従うために集まり、互いの徳(キリストの性質)を高め合うのです。そのようにして、互いに愛し合うときに、キリストのからだである教会が建て上げられていくと、神は約束しておられます。

「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分が……組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」(エペソ4:16)


東京という都市にある教会が直面する困難な状況

私たちの教会は東京にあります。牧仕である私も以前は都心で働いていましたが、東京は恐らく、世界で一番忙しい都市ランキングの上位に入るでしょう。多くの人たちは、通勤時間だけでも片道60分から90分もかけています。残業も当たり前です。弟子たちがエルサレムで毎日教会に集っていたのと同じことを東京の教会でするのは簡単なことではありません。そこで私たちは、週に1回、平日でも、電話やスカイプなどを利用してお互いのために祈り合っています。

集会に集うのは、互いに愛し合い、善い行ないをするため

一方で、そのような中でも、家庭、職場・学校、教会、プライベートのバランスを取りながら「互いに愛し合いなさい」また「特にクリスチャン同士、善行を行ないましょう」という聖書のことばの実現を追求するために、キリストがクリスチャンを招いておられるのも事実です。


キリストの願いが実現するのを見る

集会に参加することは強制でも義務でもありません。各自が自発的にキリストの愛に応答して、キリストの願いに従うからこそ参加するのです。「集会を通して、キリストの願いが実現するのを共に見たい!」という思いから、私たちはともに集うのです。

神に栄光が帰るように

あなたと私がキリストの愛に応答して、キリストのために生きようとするとき、神の助けによって、キリストのからだが建て上げられることを、神は約束しておられます。教会が建て上げられるのは、すべて神のおかげなのです。

ジーザス・コミュニティに来てみようと思う方々が、私たちとともに、素朴に主イエスを慕い求めることができるような集会を目指しています。素朴に主を慕い求めることによって、私たちの心が喜ぶ集会を目指しています。 

キリストが言われた数々の命令を実現するために、神の力を呼び求める人たちとともに、絶えず神の御顔を慕い求める集会を追求しています。

「主の聖なる名を誇りとせよ。主を慕い求める者の心を喜ばせよ。主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。」(詩篇105:3-4)

The cross- symbol of God’s love to people